http://www.osatsu-pacific.com/wp-content/uploads/2013/03/20130315_135954.jpg <虫の知らせって??> どこかへ行こうとしたり、お店に入る前に、それを阻害されるケースがあります。携帯や財布を忘れるとか、足をけつまづく、誰かが先にいて自分がすっと入れない、妙に胸騒ぎがする、などなど・・ 虫の知らせというのは結構あるもので、それをすんなりできないってことは、何かがあるということ。本当にそこに行くべきなのか、それに乗るべきなのか、少し考えたほうがいい。 この際の「虫」というのは、道教で生まれたときから身体のなかにいると言われる“三虫(さんちゅう)”に由来すると言われます。この虫が寝ている間に身体から出てきてその人間の罪悪を天帝に知らせるのだとか?(これを出て来ないように一晩じゅう眠らず監視したのが庚申講です) ついつい便利なもの便利なものへと移行してしまいますが、虫の知らせを察知できるくらいの「野生」は、人間失ってはいけないと思うこのごろです。 <看取りできる幸せ> どうも忘れられているようなのですが(忘れちゃいないのだろうけど)・・人って必ず死にます。これは赤ん坊だろうが年寄りだろうが若かろうが何だろうが同じです。基本形としてはもちろん年配者から亡くなります。おじいちゃんやおばあちゃんが死に、お父さんやお母さんが死に、子供が死ぬというのが「理想」です。 しかし天災があり、事件事故があり、病気がある。いつぞやの御嶽山の噴火は、御嶽山でも60名以上が亡くなっているのです。あんな風光明媚な場所で・・とゾッとしました。 病院や自宅で終末期の方の手を家族が握ったりできるのは幸せなのです。一人でひっそり亡くなる方がどれだけ多いか・・すると事件性がないか警察がはいり、亡骸は検視や検案のために家族とは遠いところへ運ばれていきます。 80や90歳になれば体内外は自然と弱まります。死ぬ様になっていく。人は死ぬってことがもっともっと周知されているならば、そんなに詳しく調べなくても「ああ、この状況なら死因はこうだな」とか、家族も納得すると思うのです。しない場合だけ詳しく調べればいい。(その費用だって馬鹿になりませんから。その支払いは家族に回ってきます) 余談ですが私は“アンチエイジング”という言葉は大キライです。勝手にやれって感じ。年を取ることに無理して逆行するイメージがあります。笑って過ごしていれば自然と若返るし仲間も増えます。笑顔こそがアンチエイジングです。 私は両親ともに病院で看取ることが出来ました。これって・・やはり幸せです。死ぬことは悲しい/寂しいことだけれども、看取れるのは幸せなのです。 事情があって病院へ見舞いに行けない人もいるかもしれない。誰からも見舞われない人もいるのです。人から「ありがとう」と言われる人生をどれだけ歩んでいるか?誰からも見舞いに来てもらえない、線香一本もあげてもらえない人生を歩んではいないか?“死に方”って結局は“生き方”だと思うのです。
誰も書かなかった葬儀のお話・・『虫の知らせと看取り編』
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