人が亡くなると、大抵ほとんどの方は
「一番早く葬儀が出来る日程でお願いします」
とおっしゃいます。
皆さん仕事や用事があるだろうし、学生さんなら勉強もあります。葬儀なんて早くやりたいという気持ちはじゅうじゅう分かるのですが、私はその“一刻も早く”という気持ちには意義を唱えています。
夏場であれば、人の身体の痛みは早いです。でも防腐の技術は発達していますし、早めに納棺(柩のなかに身体を納めること)さえすればドライアイスの交換だけである程度日数は保てます。冬場なら多少納棺が遅れても、気温が低いのでドライアイスさえ当てていればそれほど神経質になることもありません。
私が言いたいのは、
「故人といる時間も大事にしてもらいたい」
ということです。
生きている間は、好い事も悪い事もいろいろあるにせよその間は人と人との関係性で生きてゆく・・言わば“人格のぶつかり合い”です。笑ったり泣いたり、悔しい事もいっぱいあるでしょう。そのなかで人は何かを学んで成長するのだと思います(何も学ばない人もいますが笑)
人が死ぬと、それは“心の対話”に変わります。
死んでしまえばもう目の前には現れません。「あの時はこうだったなあ」とか「そんなこともあったなあ」という思いに駆られます。
死んでしまったのに、まだ目の前にその人がいる・・それがお身体だけがある状態=肉体だけの時間です。いないのにいる、いるけどいない・・そういう時間ですね。
葬儀を急ぐ方は、この時間を短くしようとしているのです。
私の母は夜中に亡くなってその晩がお通夜でした。友引の関係でそういう日程になったのですが、悲しむ間もありません。何がなんだか・・もうしっちゃかめっちゃか。しかも疲れ方が尋常じゃありません。いまの私の考えからはとてもかけ離れた日取りでした。
父の場合は葬儀まで中一日ありました。その晩は父の隣に寝てなんとも言えない時間を過ごせた気がします。子供の頃、父の横で就寝していた記憶が蘇りました。それでもあともう一日くらいあっても良かったといまは思います。
故人のことがあまりに憎く、早く灰になってしまえ!のような感情があるのなら別ですが(スゴイ感情ですが・・)、普通であれば最低でも一日くらい何もしない日があると、故人のことを偲べると思います。葬儀前は親戚に知らせたり誰かを迎えに行ったり、服を揃えたり葬儀の段取りしたりと、なんやかんや忙しいのです。
みなさんよく仰るのが
「何日も先かと思ってたけど、あっという間にお通夜当日が来ちゃいました」
です。そういうものなのです。
生きている間の時間も戻りませんが。肉体とだけ過ごす数日間も二度と戻りません。あとは“心の対話”が死ぬまで続くのです。
“人格のぶつかり合い”が“肉体だけの時代”を経て、“心の対話”へと入ります。残される者は三つ目の“心の時代”をどう生きるかで、後半人生の輝きが変わります。
私から言わせると、心なんて変わりやすいものはないと思っています。さっきまであれほど怒っていたのに、ふっと空を見上げただけで気持ちが落ち着いたりするのです。なるべく気持ちは落ち着いているに限ります。行動はゆっくり慌てず行なえば、運を呼びます。
どうか皆さんにも「早く早く」ではなく、「こういう時間もあるな」とどっしり構えてもらいたいのです。慌てなくても数十年もしたらみな死にます。みーんなです。100%、ハズレなし。
そのうち会えますので何も慌てないで良いのです。
*友引毎に更新
誰も書かなかった葬儀のお話・・ 『人格・肉体・心の時代編』
Tagged on: