“死の準備”
なんて書くと
「自殺でもするの?」
と言われそうですが、そうではなく
「死ぬことを意識する」
「いつかは死ぬことをイメージしておく」
ということです。
人は100%死にます。産まれない可能性はいくらでもありますが、死ぬ可能性は100%です。これは絶対。
あまりに核家族化が進み、また病院での逝去が圧倒的に多いので、“人生の先輩”達の死を看取ることがなかなか出来ません。
私は奇跡的?にも自分の両親の看取りに立ち会うことができました。二人とも私の目の前で息を引き取りました。
生々しいけど荘厳で神々しい瞬間で、それは貴重な体験でした。
歌にもしましたが
“親が子供より先に逝くのは当たり前”
なのです。
不幸にも事件や事故に遭い、子供や孫が親より先に死んでしまうケースも多々あるのです。だから親が先に逝ったら感謝しなければいけません。親に対して複雑な感情を持つ方もなかにはいらっしゃるでしょうが、ここは先に逝ってもらうしか無い!(と断言します)
死に様は生き様・・私はよく言います。人は生きてきたように死んでいきます。葬儀を見ればでその人は愛されてきたのか、そうじゃないのか一発で分かります。話なんか聞かなくてもすぐ分かるのです。
人が死んでいくのを見て、残された者は
「死ってこういうことなんだ」
と学ぶのです。そう言う意味でも葬儀に参列することは、悲しいことではありますが勉強になります。
死ぬ準備とは、なんとなくでもよいので
「いまこの瞬間に自分がいなくなったらどうなるのか」
イメージします。部屋は汚れたままだとなんだからと、掃除を始めたくなります。不要なものを捨てだします。言いたいことを言えなかった人に手紙を書くかもしれない。やりかけになっていたことを完遂したくなる場合もあるでしょう。やることが自ずと見えてきます。
いまはネットの時代なので、ネット上での整理も必要になります。FXなどやりかけたまま死んでしまうと、本人以外がアクセスできないと万が一損失が出た時に大変な事態になるので、信頼がおける方にアクセス方法を知らせておくと良いですね。
「死ぬなんてずっと先」
「葬儀なんて私には関係のないこと」
これが一番いけない。結婚しない人はいるかもしれませんが、葬儀にはどこかで関わるはずです。重篤になってから慌てるんじゃ遅いのです。親の場合でも自分の場合でも備えておきます。地震が起きてから防災グッズを買うんじゃ間に合いません。
私は本気で遺影を選んでいます。写真は決めておくといいです。「デジカメで撮ってるから大丈夫」なんて甘い甘い。本人しか分からない写真はダメです。写真は他人が見るので、きちんとプリントしてコレ!ってやっておかないといけません。
(書きたいことはまだまだありますが、キリがないのでやめます)
生きるのも大変ですが、死ぬのも色々大変なのです。
誰も書かなかった葬儀のお話『死の準備編』