なんと言うんでしょうか・・まずお顔や肌がうまい具合に“枯れて”います。手や脚も生前のそのままで、表情も穏やかです。
ことをするので、入院すると無駄な点滴や栄養補給をします(というかされます)
なので亡くなった時、手や脚がそのお年にしては異様なほど腫れ上がります。入って来た点滴を内蔵はもう処理しきれないのです。
ご家族は一日でも生きて欲しい一心で「延命」を望みます。すると胃ろうを作られたり気管を切開して管を通し、栄養をだくだく注がれるのです。
ここで考えてもらいたいのは延命は家族の希望であって、本人はどうか?ということです。
もちろん回復して以前並みに元気になる見込みが有るのなら、それはするべきです。しかし90や100歳にも届こうとする方に、この先何を望むのか?まだ働けというのか?
もちろん異論もあるでしょう。しかし逝こうとしている先輩方を静かに見送れる胆力も、見送る側は持っていておいてよいのではないかと思うのです。
産まれた以上、死ぬのです。それが不思議なベールで隠されている。
数年前に、世田谷の芦花ホームの専属医をされている石飛幸三先生の講演を聞き、ハッとさせられました。
生かすのは当たり前でしょう・・くらいに思っていた私は金槌で頭を殴られたようでした。以来、先生が提唱する『平穏死』というものを考えています。
もう私の両親はいませんが、もし仲間や知り合いでそれで悩む方がいたら、私は声をかけてあげます。
私の場合は兄たちと「親にあまり無理はさせたくない」と意見が一致していたので、比較的緩やかな看取りであったと思います。
一番良いのは、ご本人の意識がまだしっかりしてるうちに、どういう風に死にたいかを聞くことです。つまり延命治療をして欲しいか聞いておくのです。それをしておくだけで、ご家族は後々とても気が楽になると思います。
興味のある方は“石飛幸三”や“平穏死”で調べてみて下さい。とても参考になります。高齢社会のいま、平穏死はとても大事な概念ではないかと思うのです。
ちなみに私は希望する最期を仲間には知らせてありますので、その点は安心しています。