特別養護老人ホームの医師・石飛幸三先生が提唱する“平穏死”に、私も賛同します。
ある時石飛先生の話を聴く機会があり、深く感銘を受けました。“平穏死”という言葉を初めて知り、先生の本を読んで私なりにイメージを膨らませてきました。
老化がすすんで口からモノが食べられなくなったら死への準備なのだから、それは妨げるべきではない。胃に管を通して(=胃ろう)栄養だけ与えるなど無闇に延命しているだけと先生は言います(もっと専門的な言い方ですが)
私の母は、最期は水しか飲めませんでした。それを見て私は「人間は最期は水しか飲めないのだな」と思いました。水を吸い飲みで飲もうとしますが、それを咳き込んだりしてやっとの思いで飲む訳です。ただ水を飲むだけなのに苦しそうでした。あの苦しみは多分本人しか分かりません。
いたずらに延命して何か良いことがあるのでしょうか?まだ40代とか50代とかの若さで回復の見込みがあるのならまだ分かります。80をゆうに越えたお年寄りの胃に穴を開けて、栄養分を無理矢理押し込んでどうなるというのでしょう(失礼な言い方ですが)
親を思う気持ちは分かります。でもたまに“生かされた”揚げ句に胃や腸に吸収しきれない水溶分が溜まり、お年寄りなのにとても重たいホトケさまがいらっしゃいます。聴けばやはり長く病院で「延命」されていたそうです。胃が膨れてしまっているのです。胃だけではありません。顔も膨れ、赤みを帯びています。正直言って痛々しいです。それを「元に戻してもらいたい」とご遺族は仰るのです。お気持ちは分かりますが、元に戻すのは至難の業です。こちらもできれば生前のお顔のままでお会いしたいのが本音です。
平穏死を迎えるためには、普段からの会話が重要だと思います。「私はこういう最期を望んでいる」と話すのです。縁起でもないと思うかもしれませんが、いつどこで何が起きるかなんて誰も分かりません。何となくですが私は父からは意向を聴いていました。兄弟でも意見が割れることがなかったので、本人の望みに沿った看取りと葬儀が出来たと思います。会話の賜物だと思っています。
よく「言わないでもわかるだろう」とかって言います。でも言わなきゃ分からないのです。伝えなければ、思っていないと一緒なのです。だって伝わってないのですから。もしくは聴けばいいです。「どんな最期がいいの」って。勇気がいるかもしれませんが、その先で困るのは自分です。私も父から聴いていたので随分助かりました。
言葉にできなければ歌にすればいい・・私はそれくらいに考えています。歌も伝えるためのひとつの“手段”ですから。ぜひ会話をして下さい。