数珠が切れました。いつも右の手首にミニ数珠を付けているのですが、台所で作業していたらプチッとゴムが切れました。玉がバラバラっとなりましたが、すぐ拾い集めて彼らはいま修繕の時を待っています。
 
こういう場合、私は
「ああ、私の身代わりになってくれた」
と思うようにしています。私の周辺に起こるべき“何か”をこの数珠が受け止めてくれたのだと。そして守ってくれた数珠に対して手を合わせます。
これは数年前にお遍路で四国を歩いた時に、お土産販売所のおばさんが教えてくれた教えです。
 
お遍路中にやはり数珠が切れて、ちょっと落ち込んでいました。疲れもありましたし一人で歩いて心寂しいし、まあいろいろと・・それであるお土産販売所へ寄りました。そこはお遍路用品も扱っていたので、数珠もあると思ったのです。
 
私    「数珠はありますか?」
おばさん 「あるよ。どうしたの、落としたの?」
私    「数珠が切れたんです」
おばさん 「ああそう。でもあなたはいま怪我とかしてないん
      じゃない?」
私    「ええ、まあ元気ですね」
おばさん 「お数珠が身代わりになってくれたのよ」
私    「そうですか・・」
 
・・こんなやりとりだったと思います。そこで手首用の数珠を買い求め、少し休んでまた歩き出しました。その後私は無事結願(“けちがん”と読みます)を果たし、高野山奥の院へお礼参りまで出来ました。お遍路して奥の院へ行くと不思議です。涙が溢れて仕方ないんです。
 
帰ってからは数珠に対する想いがガラッと変わりました。
私は別に皆さんに数珠を付けてくれと言いたいのではありません(お経を読む為の道具ですし)。こういう考えもありますよ、という話です。
もし何かで失敗したりくじけたりしたら
 
「いまは成功するときではないんだ。修正点や改良すべき箇所があるに違いない」
 
と、また取り組めばいいのではと思うのです。すべては気の持ちようです。コップに水が半分入っているとして
“もう半分しか無い”
と見るのか
“まだ半分も残っている”
と見るのかで、コップの水の意味がガラッと変わります。同じ半分の水を見ているのに。
 
だから数珠が切れる事もありがたい。私はあそこで数珠が切れていなかったらあのおばさんには会えませんでした。
人生は気づくか気づかないかです。失敗したって気づけばいいのです。
*友引毎に更新
誰も書かなかった葬儀のお話・・『お数珠のはなし』編