12月14日は江戸時代に“赤穂事件”があった日。 赤穂浪士が葬られている港区の泉岳寺では、毎年“義士祭”が行なわれています。 播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城松の廊下で指南役である吉良上野介を斬りつけたのが事件の発端。 浅野は即日切腹を言い渡され、赤穂藩は取り潰し。吉良にはお咎めはなかった(当たり前です)。 ここで立ち上がるのが赤穂藩浅野家の家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ/日本人はこの名前の響き、好きですね〜)は、主君の仇を取るべく四十七人の赤穂浪士が吉良邸に押し入って討ち入りを果たす・・ これがいわゆる“忠臣蔵”です。
さてこの事件・・けっこう意味不明なんですね。 まず浅野が吉良を斬りつけた理由が不明です。浅野が吉良に賄賂を渡さなかったことによる関係性の悪化説、単なる好き嫌い説、浅野の突発的な行動などなど。 しかし舞台は江戸城内、神聖にも神聖が重なる場所です。将軍の機嫌を損ねることがあったらそれこそ死活問題。もし意に沿わないことがあったにせよ、刀を抜いた藩主たる浅野内匠頭・・これ如何に?? 「藩主が切腹させられた!仇討ちだ!」 と大石以下、最初は120名ほどが集まったようですが一人減り二人減り、結局四十七人に。一年半もスパイ活動?を重ね吉良側の目を欺き、討ち入りは決行されました。 平和に暮らしていたはずの吉良さん(御歳60歳オーバーのおじさん)は、狂おしいほど主君を思う若者達に無抵抗で首をはねられたのです。 “生類憐れみの令”という悪法(と私は思う)によって民衆は苦しんでいたので、大石たちの行動は世間から快くむかえられました。 処理に困ったのは幕府。やったことは大罪だけど、彼らをただ処刑するのでは民衆の感情をさらにこじらせてしまう・・ ここで出た結論は、 「彼らは武士の鑑である。だから切腹の名誉を与えるべき」 という、どちらもアゲてしまう見事なやり方。 討ち入り自体、自らの名を上げようとする赤穂浪士の就職活動だったという見方もあります。 ちなみに浅野内匠頭の辞世の句は 「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」 江戸城内で刀を振りまわす割には、良い句を詠みますね。
忠臣蔵のナゾ