広島平和記念資料館内に設置されてる“被爆人形”の撤去が検討されてるそうです。
http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/07/hibaku_ningyo_n_3717489.html
まず言いましょう。あそこはディズニーランドではありません。原子爆弾という、人類史上最凶最悪の爆弾を落とされたことを後世に伝える施設なのです。私もあの人形を初めて見た中学生のときは(いまもですが)驚きました。資料館を出てもあれしか記憶に残らないくらいショッキングでした。だからこそ意味があるのでは、と思うのです。
第一に原爆は怖いものなんじゃないんですか?怖さ/悲惨さ/異常さを伝えないで何を伝えるのですか!!
“怖い”という理由で撤去されるのなら、もっと先に撤去しなきゃならないものが世の中には溢れてるでしょうに。
これを受けて私は葬儀の納棺のときに、亡くなった故人の亡骸を自分の子供に触らせも見せようともしない、若い親(大抵は母親)を思い出しました。
私が担当ならば、お子さんがいるのならこちらで一緒に旅支度の準備をしてもらいましょう、良い経験になりますからと言います。勘違いしないでもらいたい。死なない人はいません。死亡率は100パーセントです。人は亡くなったら肌は冷たくなって堅くなって・・死んだらこうなるって教える絶好の社会勉強です。それを教えるために先人は亡くなるといってもいい。その絶好の機会を「うちの子はいいです」って、なんの権限があるのかと言いたいのです。あなたの人生じゃない、お子さんの人生のために見せて触らせるのです。
亡くなった人を見たら、絶対何かを感じます。感じないはずがない。そして他人や自分を殺めることは減るはずです。事故や事件での無惨はお姿ならば控えたほうがよいですが、自然死であれば絶対に見せたほうがいいんです。どうも曲がった防衛意識がこのことにもこの広島の問題にも根底にあると思います。
つまり完全な想像力の欠如なのです。死んだらこうなる、ナイフで刺したらこうなる、暴言を吐いたら相手はこう感じる・・・決定的に想像力がないのです。私は中学の時にあの人形を見て「実際はもっとひどかったんだろうな」と感じました。本当にそうでしょう。抑えて控えてあの人形なのでしょう。
もっと考えなきゃならないこと、伝えなきゃならないことがあるでしょうって。撤去なんかいつだってできる。
平和記念資料館はディズニーランドではありません。あの人形以上に伝える手段があるのならば撤去したらいい。甘いこと言わないでもらいたい。